お嫁ちゃんがいなくなって毎日の生活が変わった。
お嫁ちゃんがいなくなって何気ないことでも、一人だ・・・と痛感することが多い。
例えばこんなこと
朝、我が家ではコーヒーを2人分入れるが、これはおっさんの仕事。
コーヒー豆を手動のミルで引き、フィルターでドリップして2人分のコーヒーを入れる。
まず、コーヒー豆をスプーンで1杯、これまでなら2人分の2杯のところ、今は1杯だ。
これは、軽いジャブ
次にミルで豆を挽くが、1人分なので、いつもより早く挽き終わる。これもジャブ
次にフィルターにコーヒーの粉を入れ、お湯を注ぐ。
この時、お湯は一人分で良かったことに気づく・・・、ここでワンツーが決まり、半泣き。
半泣きになりながらもコーヒーを入れるカップを用意する。
お嫁ちゃんがいないのだから、おっさんのカップだけを出しておく。
そして、コーヒーを注ぐわけだが、いつもならお嫁ちゃんのカップにフィルターを置いて、おっさんのカップに注ぎ、次におっさんのカップの上にフィルターを置いてお嫁ちゃんのカップに注いで2人分を入れるのに、お嫁ちゃんのカップが無いから、フィルターを置く場所が無いやんけ~!
予想しない方向からストレートが決まって、おっさんはダウン・・・泣いてしまう。
コーヒーを入れるだけで泣けてしまう・・・今日この頃・・・
死を意識するようになった
今の日本では人の死ぬ率がかなり低いと思う。
だからなのか、死に対して鈍感になっているんじゃなかろうか?
おっさんもその一人だ。いや、一人だった。
お嫁ちゃんが死んで、3ヵ月、毎日悲しい気持ちで一杯だ。
気が付けばお嫁ちゃんの名前を大きな声で叫ぶ独り言が出てしまう。
親も健在で兄弟も誰も亡くなっていない。
祖父母は亡くなっているが、核家族化の影響で同居はしておらず人の死に直接的な影響は受けないまま40年以上生きてきた。
それが、いきなり最も影響力のあるお嫁ちゃんの死・・・・
受け入れられるはずがありません・・・
そんな、茫然とした日々を送っている時に、ニュースで阪神淡路大震災の追悼式を眺めていた。
震災当時、おっさんは大学生で震災の影響で休校となったことを喜んでいた気がする。
けど、現場ではお嫁ちゃん、親、子供、を同時に失い、ついでに家まで亡くなった方々が居られたことだろう・・
それがどれほどの事だったのか全く想像できていなかった。
大切な人の「死」が与えるダメージを具体的にイメージできていなかった。
家族や大切な人を守ることはきっと、どんなことよりも優先されることなんだと思う。
それが多少常識から外れようと優先されることなんだと思う。
(他人に迷惑をかけたり、犯罪を犯すのはちょっとどうかと思うけど、それでも家族を守るためなら、怒られてもやる時はあるような気がする。例えば、飢え死にしそうな時の万引きとか・・ダメかな?)
何が言いたいかと言うと、自分を含めて身近な人間は常に死ぬ可能性があることを意識しておかないと突然の死に対してどうしていいか解らなくなる。
解らなくなった結果、残された人間は「自殺もありかも・・」と思ってしまう。
おっさんも今はそんな感じだ・・・
何時まで生きるかわからないけど、おっさんは自分の死や目の前の人がもし死んだら、と言う問いを自分自身に問い続けたいと思います。
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